社長ブログ
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奥村フォーラム中村橋
奥村まことさんの一周忌でした。
だべることが好きだったまことさんを忍んで、鳥、牛肉の丸焼きと、何時ものお餅つきです。何事につけ楽しく楽しく、仲良く、仲良くが言い癖の用に午前中の支度から、午後は飲み会、こんな日は何時もは、天気が悪いのですが、なぜか晴天、庭の梅もちらほら、ふきのとうも芽を出し始めていました。木曽三岳設計所も無くなり寂しい思いですが、奥村先生、まことさんの楽しんで来た痕跡をたくさんの人に、知ってもらい、どのように伝えて行くか、奥村フォーラムが中心になって情報交換の場になることを期待いたします。
奥村まことさんありがとう
奥村まことさんとは30年前八ヶ岳の別荘の設計者として工事の依頼がきっかけでした。屋根で暖まった空気を床下に送る装置のついた建物の設計でした、それが後のOMソーラーでした、まだ部品化されていなく換気ファンをセンサーで動かし、ダクトはベニヤにスタイロフォームを内側に張り付け、まことさんいわく小屋裏の狸ローカの手作りでした、手作りとは言えかなりの制度で煙の漏れが無いかチェックしたり、ダンパーにはバイメタルなどを使ってみたりと、まだまだ手探り状態でしたしかし、寒さの厳しい八ヶ岳ですが家の中の水道の配管の凍結もなく、今現在もスローなシステムですががんばっています。
その後OMソーラー協会が発足、その発足当時からまことさんからの誘いでOMに入り、色々な経験をさせてもらいました。原点はあってもまだまだいろいろな発見や、経験が協会に集まってOMだけでなくいろいろな仕掛けが出来ました、みんなで使えば良いの奥村先生、まことさんの考えでOMだけで無くいろいろな考え方に別れてみんなでおもしろい、もったいない精神は受け継がれています。
まことさんには事務所兼自宅も設計して、私の宝ととして末永く大切に住みたいと思っています。どれだけ私の人生に無くてはならない人であったか、自分の死に対して前向きに考えていたのか、最後の絵にその気持ちが感じられます。
2月11日昭雄先生、永田先生の待っている世界に旅立ちました。本当にありがとう2月20日練馬の自邸にてお別れの会をいたします。みんな楽しく送ってあげてください。
2016年の初日の出
2016年明けましておめでとうございます。
今年も荒川の土手、富士山と荒川の土手が一望出来る場所からの初日の出です。今年も良い年も楽しく、楽しくがんばります。日の出時間7:11
奥村まことさん設計の自宅兼事務所21年目の元旦です。
八ヶ岳山麓の民家
42年前にタイムスリップ
学生時代に八ヶ岳山麓の古い民家の調査をいたしました。小淵沢の平田家は当時残っている民家では一番古い様式であったことから調査をして、保存のための運動もいたしました。調査1973年、国の重要文化財に1989年1992年に小淵沢町の郷土資料館敷地に移築、当初の建物に復元されました。
当時の学生時代、夏休みを使って公民館に自炊で泊まり込み真夏の暑い中煤だらけの小屋裏に入って出てくるとみんな真っ黒でも楽しかったです。
移築されてから一度も立ち寄ったことがなかったので、見学して来ました。我々の調査は住んでいる中での調査だったこと、今回の復元は解体しながらの調査と言うことで想定していなかったことも、移築された建物に発見出来たと思います。当時復元模型を資料館内に学校から寄付して大切に保管されていました。
木喰上人
下部温泉から1okmほどの参観地、身延町古関丸畑木喰の生誕地に微笑館が有ります。
円空は有名な人物ですが木喰はあまり知られてはいません、しかし円空仏と木喰仏とは研究者の間では庶民信仰の具現化として祈りの対処にされてきました。円空仏はのみ力強さで見る人に思わず手を合わせてしまうほどの力が有ります。木喰仏は微笑んでいる愛らしさを感じ、見る人の心を和らげてくれるような仏様です。円空は確認されているだけで5386体の神仏像が存在しています。木喰は確認数721体圧倒的に円空仏が多いのですが木喰は宗派を持たず日本全国を歩き木喰仏を残して来ました。
生誕地、今では交通の手段は有りましたが傾斜地で田んぼは一枚も無く、質素な生活から抜け出して江戸に出てみたものの、封建的な社会を目の当たりにして出家したとのことです。
2日の2
有楽苑から本の目と鼻の先にの高台に国宝犬山城別名白帝城、天守の石垣は自然石を加工しない野面積み工法です。明治24年濃尾震災で大きな被害を受けましたが修復、その後伊勢湾台風で大きな被害を受け、昭和の解体修理が行われ現在に至っています。お城としてはあまり大きく有りません。1階の納戸の間2階の武具の間など低い天井で狭い場所でも、広さを感じさせます。数あるお城の中でも一押しです。
その後何年ぶりかの明治村に向かいました。目指すはライトの帝国ホテル、まずそれよりもなぜこんな名建築がこの場所でなく、もとの場所で修復されて保存出来なかったか、今論議されている国立競技場の年間維持費が未来への遺産の用に言っている方もいたようですが、帝国ホテルなんかは建てて数十年は必要最小限の維持管理費ですんでいたと思います。今回の国立競技場がなぜ未来への遺産には絶対なりません。
それならばなぜ旧国立競技上を遺産として残せなかったか。少し話がそれてしまいました。
帝国ホテルの、人の手仕事、日本人の技術の高さに慣例いたします。ライトの設計は言うまでも有りませんが手仕事のすばらしさに目を奪われてしまいます。帝国ホテルのレンガとか大谷石の細工をどのように移築したのかも聞きたいですね。日本建築の用に木材で組み上がっている物と違いセメント又は何らかの接着材で施工しているので移築するのも大変だったと思います。ライトの建物は日本国内にいくつか残っていますが手仕事の技術の高さはこの建物はさいこうです。明治村の敷地内には全国からの明治維新の建物が移築されて保存され、後世に伝えて言ってくれると期待しています。その中に我が輩は猫であるの筆者、夏目漱石の自邸が移築されていました。
明治村を後に岐阜県を通る中山道16宿の加茂、垂井、赤坂宿を散策長良側の渡しの跡などを見学、脳みそいっぱいの楽しい時間でした。
奥村さんと2日目の1
名鉄ホテル敷地内の有楽苑の苑内には3つの茶室が有ります、管理事務所から入り口に元庵、弘庵、如庵
織田信長の実弟、有楽斎如庵が残した茶室です。元庵は大阪城落城後東照宮のその境内に建てられていた、古図によって復元されました。今如庵の妻側にかけられている板額は元庵にかかっていたのではないかと言われています。弘庵は有楽が大阪天満屋敷に建てた茶室を再現したものです。
国宝の茶室は如庵のほか、千利休作の待庵と小堀遠州好みの龍光院密庵席が有りますが、如庵は名実共に茶道文化史上屈指の存在です。如庵は随所に先例のみない独創的な工夫が展開され、使い勝手において、意匠において斬新の作であったろうと言われています。
茅野の家
お引き渡ししてから2年の歳月がたち、冬の寒さ対策に太陽の熱を取り入れた
ソーラーシステムを取り入れて、建物全体を暖めています。
暖房だけでなく、換気システムとしても室内の「空気のおいしい家」になりました。薪ストーブも設置していますが、ほとんど使用しないで生活をしています。
すばらしい背景の中、都会の生活から解き離れて、時間と共に自然を楽しんでいます。
粘土節
山梨には民謡は少なくまた古くから歌い続けられている民謡はおそらく数曲で、明治時代以降の民謡が多いようです。
甲府の盆地から笛吹川と釜無川二本が、合流して太平洋に流れる富士川になります。
釜無川の支流には南アルプス、字のごとく支流でありながら河川に溜まりが無いことから甲府盆地を、たびたび洪水にみまわされたとのこと、武田信玄の時代にも洪水が何回もあったことから、今の甲斐市に信玄は釜無川に信玄堤を築いて洪水に備えて現在でも史跡として残っています。
明治時代の洪水で甲府盆地は大変な被害があったことから、甲府の南笛吹川の合流手前の地域で堤防を築く時に時に唄われた民謡とのことです。
一滴庵
住宅建築の竹中工務店一滴庵見学の応募に当選して見学に行ってきました。
新神戸駅前の公園の林の中に大工道具館と一滴庵がありました。
道具館えのアプローチには緩やかなのぼり坂にデザインされた、手すりが目線に邪魔にならない高さで誘導しています。
道具館の玄関の引き戸には栗の厚板にチョウナが均等に殴りの手仕事がされて、柔らかい手触りで中の雰囲気が建具で感じられます。
道具館の中から中庭を挟んで反対側に一滴庵がひっそりとたたずんで、道具館からの目線からさけたようにたたずんでいます。
一滴庵は普段は見学出来ませんが今回、住宅建築の計らいで見学と写真撮影もさせて頂きました。
説明も丁寧にして頂き大工、左官、紙職人の思いが至るところに現れて職人の手仕事のすばらしさを感じました。外観も全体を柔らかく感じるのは 屋根の流れだけでなく、棟にまでむくりをつけて図面では表せない、現場での感覚と手仕事のすばらしさに感動しました。
道具館内には茶室の施工途中を見せた展示や昔からの大工道具などが展示してあり感動しました。
道具館から一滴庵
一滴庵正面
一滴庵にじり口
一滴庵水屋
一滴庵欄間
道具館左官の手仕事
道具館茶室土壁
道具館エントランス