社長ブログ
Ceo Blog社長ブログ
奥村フォーラム中村橋
奥村まことさんの一周忌でした。
だべることが好きだったまことさんを忍んで、鳥、牛肉の丸焼きと、何時ものお餅つきです。何事につけ楽しく楽しく、仲良く、仲良くが言い癖の用に午前中の支度から、午後は飲み会、こんな日は何時もは、天気が悪いのですが、なぜか晴天、庭の梅もちらほら、ふきのとうも芽を出し始めていました。木曽三岳設計所も無くなり寂しい思いですが、奥村先生、まことさんの楽しんで来た痕跡をたくさんの人に、知ってもらい、どのように伝えて行くか、奥村フォーラムが中心になって情報交換の場になることを期待いたします。
岩屋堂
北杜市のみずがき湖を左にダムを渡って県道を30分.山道のクリスタルライン(高須林道)舗装はされているが山の中を延々と30分ほど途中、平日はあまり車の通らない所に森のラーメンやがある、土曜日と日曜日だけ営業とのことだがここまでくるのも少し気合いが必要、これからまだ10分ほど山の中を走る、話には聞いていた巨大岩で自然に削られた洞窟、高さ4mくらいで中は20帖の洞窟の中に如意輪観音が鎮座しています。 平安時代初期の空海が作った物ではないかと言われています。以前は近隣の参拝者だけでなく、信州からの参拝者でにぎわって、祭りには何件もの出店でにぎわったいたとのことです。今は一人で参拝するのには少し勇気がいります。
ギンリョウソウ
五月の終わり野辺山高原はまだ春の息吹で新緑の世界です。高原の清々しさに盆地の熱さを忘れてしまいます。
これから野辺山の山荘の工事が始まります、私も今までに何件もの山荘を建築してきました。その度に敷地内、その周辺の植物を観察してきました。植物によって湿気や日当りまた風の方向や強さなどを知ることや全体の景色をなどから建築の設計の参考にしてきました。
今回野辺山の山荘建築にあたっても周りの植物の散策をいたしました。私に取っては図鑑では見ていたキンリョウソウを発見いたしました。目にすることは無いだろうと思っていた植物を発見いたしました。日照時間は4.5時間、近くに池があり湿度も高い場所、登山中に偶然見つかると言うほど目にすることは少ないようです。真っ白な衣で妖精の用です。
奥村まことさんありがとう
奥村まことさんとは30年前八ヶ岳の別荘の設計者として工事の依頼がきっかけでした。屋根で暖まった空気を床下に送る装置のついた建物の設計でした、それが後のOMソーラーでした、まだ部品化されていなく換気ファンをセンサーで動かし、ダクトはベニヤにスタイロフォームを内側に張り付け、まことさんいわく小屋裏の狸ローカの手作りでした、手作りとは言えかなりの制度で煙の漏れが無いかチェックしたり、ダンパーにはバイメタルなどを使ってみたりと、まだまだ手探り状態でしたしかし、寒さの厳しい八ヶ岳ですが家の中の水道の配管の凍結もなく、今現在もスローなシステムですががんばっています。
その後OMソーラー協会が発足、その発足当時からまことさんからの誘いでOMに入り、色々な経験をさせてもらいました。原点はあってもまだまだいろいろな発見や、経験が協会に集まってOMだけでなくいろいろな仕掛けが出来ました、みんなで使えば良いの奥村先生、まことさんの考えでOMだけで無くいろいろな考え方に別れてみんなでおもしろい、もったいない精神は受け継がれています。
まことさんには事務所兼自宅も設計して、私の宝ととして末永く大切に住みたいと思っています。どれだけ私の人生に無くてはならない人であったか、自分の死に対して前向きに考えていたのか、最後の絵にその気持ちが感じられます。
2月11日昭雄先生、永田先生の待っている世界に旅立ちました。本当にありがとう2月20日練馬の自邸にてお別れの会をいたします。みんな楽しく送ってあげてください。
2016年の初日の出
2016年明けましておめでとうございます。
今年も荒川の土手、富士山と荒川の土手が一望出来る場所からの初日の出です。今年も良い年も楽しく、楽しくがんばります。日の出時間7:11
奥村まことさん設計の自宅兼事務所21年目の元旦です。
八ヶ岳山麓の民家
42年前にタイムスリップ
学生時代に八ヶ岳山麓の古い民家の調査をいたしました。小淵沢の平田家は当時残っている民家では一番古い様式であったことから調査をして、保存のための運動もいたしました。調査1973年、国の重要文化財に1989年1992年に小淵沢町の郷土資料館敷地に移築、当初の建物に復元されました。
当時の学生時代、夏休みを使って公民館に自炊で泊まり込み真夏の暑い中煤だらけの小屋裏に入って出てくるとみんな真っ黒でも楽しかったです。
移築されてから一度も立ち寄ったことがなかったので、見学して来ました。我々の調査は住んでいる中での調査だったこと、今回の復元は解体しながらの調査と言うことで想定していなかったことも、移築された建物に発見出来たと思います。当時復元模型を資料館内に学校から寄付して大切に保管されていました。
家とはその1
長く使い続けれる家は、既製服の用にハンガーにかかっている洋服の用に選んで手に入れることではないでしょう。
場所や環境によって建物の性能も違います。建て売りの分譲地に同じ色で同じ形の家が並んでいるのを見ると、住んでいる人も、同じ洋服を着て同じ顔をして、出てくるのではないかと御違いするほどです。
まずは土地探しから、景色が良くて日当りが良くて風通しが良くて、学校や、スーパーに近く静かで安いところ、まず無いでしょう。いくつかの条件をクリアーして納得して、今度は建物です。こんな家あんな家と展示場周りをしてどれを見ても既製服のオンパレード等々見学疲れして本当の自分たちの住みたい家の基本を忘れてしまい、みんな同じに見えてしまうらしいです。
だからと言ってそれがいけないと言う訳では有りませんが、敷地にどう建てるかどう生活していくか、今の現状だけでなく将来はどんな生活になるか、周りの環境さえも変わって行くのは当然です。長期優良住宅だということで50年100年そのまま使えるかそれは難しいでしょう。いろいろな面で交換やメンテナンスをしながら住み続けられると思います。
家にはいろいろな工夫も必要です、既製品では出来ない仕事が私たちの仕事だと思っています。設計は基本、しかしそれに携わる熟練した職人が物造りに携わってくれること、手の仕事を継承して行くためにも木の家の良さを知ってもらいたいです。
木喰上人
下部温泉から1okmほどの参観地、身延町古関丸畑木喰の生誕地に微笑館が有ります。
円空は有名な人物ですが木喰はあまり知られてはいません、しかし円空仏と木喰仏とは研究者の間では庶民信仰の具現化として祈りの対処にされてきました。円空仏はのみ力強さで見る人に思わず手を合わせてしまうほどの力が有ります。木喰仏は微笑んでいる愛らしさを感じ、見る人の心を和らげてくれるような仏様です。円空は確認されているだけで5386体の神仏像が存在しています。木喰は確認数721体圧倒的に円空仏が多いのですが木喰は宗派を持たず日本全国を歩き木喰仏を残して来ました。
生誕地、今では交通の手段は有りましたが傾斜地で田んぼは一枚も無く、質素な生活から抜け出して江戸に出てみたものの、封建的な社会を目の当たりにして出家したとのことです。
2日の2
有楽苑から本の目と鼻の先にの高台に国宝犬山城別名白帝城、天守の石垣は自然石を加工しない野面積み工法です。明治24年濃尾震災で大きな被害を受けましたが修復、その後伊勢湾台風で大きな被害を受け、昭和の解体修理が行われ現在に至っています。お城としてはあまり大きく有りません。1階の納戸の間2階の武具の間など低い天井で狭い場所でも、広さを感じさせます。数あるお城の中でも一押しです。
その後何年ぶりかの明治村に向かいました。目指すはライトの帝国ホテル、まずそれよりもなぜこんな名建築がこの場所でなく、もとの場所で修復されて保存出来なかったか、今論議されている国立競技場の年間維持費が未来への遺産の用に言っている方もいたようですが、帝国ホテルなんかは建てて数十年は必要最小限の維持管理費ですんでいたと思います。今回の国立競技場がなぜ未来への遺産には絶対なりません。
それならばなぜ旧国立競技上を遺産として残せなかったか。少し話がそれてしまいました。
帝国ホテルの、人の手仕事、日本人の技術の高さに慣例いたします。ライトの設計は言うまでも有りませんが手仕事のすばらしさに目を奪われてしまいます。帝国ホテルのレンガとか大谷石の細工をどのように移築したのかも聞きたいですね。日本建築の用に木材で組み上がっている物と違いセメント又は何らかの接着材で施工しているので移築するのも大変だったと思います。ライトの建物は日本国内にいくつか残っていますが手仕事の技術の高さはこの建物はさいこうです。明治村の敷地内には全国からの明治維新の建物が移築されて保存され、後世に伝えて言ってくれると期待しています。その中に我が輩は猫であるの筆者、夏目漱石の自邸が移築されていました。
明治村を後に岐阜県を通る中山道16宿の加茂、垂井、赤坂宿を散策長良側の渡しの跡などを見学、脳みそいっぱいの楽しい時間でした。
奥村さんと2日目の1
名鉄ホテル敷地内の有楽苑の苑内には3つの茶室が有ります、管理事務所から入り口に元庵、弘庵、如庵
織田信長の実弟、有楽斎如庵が残した茶室です。元庵は大阪城落城後東照宮のその境内に建てられていた、古図によって復元されました。今如庵の妻側にかけられている板額は元庵にかかっていたのではないかと言われています。弘庵は有楽が大阪天満屋敷に建てた茶室を再現したものです。
国宝の茶室は如庵のほか、千利休作の待庵と小堀遠州好みの龍光院密庵席が有りますが、如庵は名実共に茶道文化史上屈指の存在です。如庵は随所に先例のみない独創的な工夫が展開され、使い勝手において、意匠において斬新の作であったろうと言われています。